令和3年度旧広島陸軍被服支廠慰霊祭について

例年、旧被服支廠の赤レンガ倉庫前で開催してきた慰霊祭ですが、新型コロナ・ウィルスの感染を防ぐため、今年は、現地での開催を見送り、慰霊祭のようすを録画したビデオを中心に、オンライン上で開催します。 日時 令和3年12月1日11時〜12時

式次第

11:00 中西巌代表挨拶(要旨)

コロナ禍の中、会員の皆さんが一堂に会しての慰霊祭を開催することが困難な状況にあります。今年は、少数の代表が、ここ被服支廠倉庫前で、会員の皆さんはご自宅で、分散して慰霊祭を執り行う運びとなりました。また、広島県庁が、従来示していた旧被服支廠の赤レンガ倉庫の2棟解体1棟保存案から、3棟保存の方向へ動いている朗報を、被爆者の御霊にご報告いたします。

11:05 献花(中西代表他)

13:10 黙とう(参加者一同)

13:11 中西巌代表のお話(要旨)

1945(昭和20)年8月6日、広島高等師範学校附属中(現広島大附属中)の4年生で当時15歳だった中西巌代表(90)は、学徒動員で通っていた陸軍被服支廠(ししょう、現在の広島市南区出汐)で被爆しました。爆心地から2.7キロ。
「激しい閃光が走り、私は、何かの力で吸い上げられ、爆風で数メートル飛ばされました。少し気を失って、気がつくとあたりは煙と粉塵で灰色でした。私は、この建物(赤レンガ倉庫)の影にいたため奇跡的に無傷でした。仲間たちは顔や腕が火傷で、真っ赤になっており、実際は爆心地から離れているのに工場内に爆弾が落とされたと感じるほどでした。その後、市内中心部に救援に向かい、しばらくして引き返すと、被服支廠の扉が曲がっていたのに驚きました。また、原爆投下直後、被服支廠では倉庫に負傷者を収容し、臨時救護所として使用されていたため、倉庫内では、うめき声があちこちであがるすさまじい状況でした。被爆者のみなさんは水がほしいと叫んでおられましたが、水を与えると死ぬと言われていました。」「翌日、焼け野原に入って目の当たりにしたのは、あちこちから煙が上がり、たくさんの遺体が転がっている地獄のような光景でした。もう広島を離れるしかないと、私たち一家は白市(現東広島市)に疎開します。そこで、歯茎からの出血や激しい下痢など放射線障害の症状が現れ始め、不安な毎日を送ることとなりました。」
「改めて、被爆時の被服支廠の状況を知り、赤レンガ倉庫の実際に曲がった鉄扉などを見ることで熱風や爆風のすさまじさ、被爆の惨状を感じてください。」
「平和が当たり前だと思うことはおそろしいことだ。76年前の悲劇を忘れることなく、みんなが核兵器のない世界の実現のために努力していくことを願っています。」

11:45 懇談会の活動報告と広島県の動向(内藤副代表)

「令和元年12月、広島県は所有する3棟を1棟外観保存2棟解体の方針を示しましたが、私ども懇談会をはじめとする市民の反発を受けて、令和2年2月、県知事は先送りを表明し、再調査をしました。令和3年5月、広島県は所有する3棟を耐震化して保存する方針を表明しました。そして、旧被服支廠赤レンガ倉庫の利活用策を考える有識者懇談会が設けられ、懇談会の中西巌代表は、平和部会の委員になっております。」

12:00 終わりの挨拶(多賀副代表)

「慰霊祭はこれにて終了いたします。ご参列ありがとうございました。懇談会一同、旧被服支廠赤レンガ倉庫の利活用案の進展に注目するとともに、この保存に協力していく所存です。」


inserted by FC2 system